世界史オンライン講義録

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004 第1次ロシア革命(教科書313ページ)

ロシア皇帝ニコライ2世の時代

このころロシアでは,ニコライ2世という人物が皇帝でした。もちろん,ロシア皇帝ですので権力が強く専制政治を継続していました。ちなみに,このニコライ2世はロマノフ朝最後の皇帝でもあります。「俺に逆らう者は処刑するぜ!」といったように非常に怖い存在だったこともあり,皇帝をやっつけようなんて考えは国民にもまったく全くありませんでした。というのも,これまでロシア皇帝というのは,たとえばヤンキー集団のリーダー格のように,普段は国民にとって非常におっかない存在ではあるのですが,いざロシアが外国と戦争するってなったときには,この皇帝の恐ろしさが逆に国民の心強さに変わるってのは容易に想像できますよね。このように国民にとって恐ろしくも心強いのがロシアの皇帝像だったわけです。

 

ロシアの資本主義

さて,そんな皇帝ニコライ2世の時代に,ロシアは資本主義が発達していきました。そのきっかけとなったのは,ロシアと結びつきが深かったフランスの資本が導入されたからでした。というのも,ロシアは非常に広大な国でしたので,工業が大きく発展していくとともに,移動手段の一つとしてシベリア鉄道が着工されました。ロシアでは皇帝とともに工場は貴族が経営しているので,労働者は常に貴族や王様の顔色を伺いながら働かなければなりませんでした。一方で,イギリスやフランスでは工場を資本家が経営していたため,市民という立場では資本家と同格だった労働者は,頑張って働けば働くほど,お給料もそれなりにゲットすることができたのです。このように資本家と労働者が手を取り合って協力して頑張っていこうというのに対し,ロシアは明らかに市民とは身分の差が違う貴族が工場を経営しているわけですので,フランスからの資本(お金)を使って工場を動かし,売上の一部はそのフランスへ借金返済にあて,本来はその残りは工場労働者に賃金として払うべきところを,ロシアでは貴族が自分たちの取り分にしてしまうことも多々あったのでした。

 

ロシアの背景

1.ロシアは皇帝の存在は恐ろしいが,いざ戦争となると心強い存在であった

2.ロシアの産業革命は貴族から産まれたのものであり,労働者たちは余り豊かにならなかった。

 

ロシアの社会主義運動

つまり,労働者はいつまで立っても生活は苦しいままってことだね。そうすると,ロシアの国民の中に,少しずつではあるけども社会の矛盾を解決し,平等な世の中にしていこう!といった動きを見せる①ロシア社会民主労働党が現れるようになったのです。これはマルクス主義といって,革命によって社会主義を実現していこうとする考えのことです。この社会主義政党がのちに②多数派のボリシェヴィキと③少数派のメンシェヴィキへと分裂していきます。ボリシェヴィキは,どちらかというと革命を求める急進派ですね。代表的な人物としてレーニンが挙げられます。一方で,メンシェヴィキは国のあり方は変えなければいけないことはわかっているが,今すぐに革命だ!っていうわけではなく,できるところから国を改革していこうとする穏健派で,代表的な人物としてプレハーノフがあげられます。そしてもう一つ,④社会革命党ですね。これはナロードニキの流れを汲んでいて,労働者ではなく農民たちが社会に平等を達成しようという思想をもって組んだ政党です。また,どちらかというと皇帝というよりかは,立憲君主制を主張したのが⑤立憲民主党です。イギリスの様に王様は存在してもよいが,国のあり方を変えて自由や平等を実現していこうとする政党です。ロシアは近代化のための改革を上から行った,そのため国民の暮らしぶりはよくならない。だから,国のあり方を改善しようとする政党として,労働者を中心とした社会民主労働党,農民を中心とした社会革命党,そして皇帝の存在は認めながらも自由や平等を主張していく立憲民主党といった政党がこのロシアの社会構造から産まれてきたのでした。

 

第1次ロシア革命

そして,このニコライ2世の時代についに出来事が起きてしまいます。それが,第1次ロシア革命です。人々が皇帝の独裁に疑問を感じ始めました。その背景となったのが日本とロシアとの関係です。ロシアっていうのは「でかい国」「さむい国」ですね。だから,ロシアにとって喉から手が出るほど欲しかったのがアレですね。アレ!凍らない港(不凍港)です。そして,ロシアはこれまでトルコ側からの南下をずっと企んでいたのですが,これがクリミア戦争ベルリン会議などでいったん挫折してしまいます。そうするとロシアはインド方面から南下するとイギリスとぶつかりますから,今度は東側からの南下を試みます。それが,中国であったり急成長を遂げてきた日本であったりするのですが,この南下を巡って起こった戦争のことを何戦争というかわかりますか?そうですね,日露戦争です。このころ日本も,中国あるいは満州に対する進出を図っていましたので,ロシアの利害と日本の利害が真正面からぶつかることになってしまい,対立が起きてしまったのでした。

 

血の日曜日事件

さて,そうすると国民たちにとってこれは嬉しいことですか?厳しいことですか?厳しくなりますよね。やっぱり戦争っていうのはモノをどんどんと消費するわけで,いままで口にしていた食べ物が口にできなくなる,なのに工場経営者である貴族や資本家は,労働者に対して「もっと鉄を作らんかい!」「もっと武器を作らんかい!」とあおるわけだから,国民は非常に苦しい生活を強いられることになります。そこで,国民は恐ろしくもあり,心強い存在である皇帝に対して「私達労働者は,工場を経営している貴族や資本家に搾取されて本当に苦しいんです,助けてください!」と直々にお願いをして請願する行進を1905年1月9日に行ったのです。労働者が,ガポンという神父に引き連れられた労働者たちが「近頃,我々の暮らしは本当に苦しくなってきた・・・。ここはひとつ,皇帝に我々の苦しい生活ぶりを訴えて,なんとか良くしてもらおう。あいつら貴族や資本家が我々から搾取している実態を知ってもらおう!」と請願の行進を行ったのでした。すると,こともあろうことか皇帝の持つ軍隊が請願の行進をしている最中の労働者めがけて撃ってきたのです(血の日曜日事件)。これには労働者もびっくりです。というのもおかしくないですか?だって皇帝の存在ってどんな存在でしたっけ?そうですよね,皇帝って恐ろしいが心強い存在だった,つまり市民の味方だったはずのなのに,無差別に労働者を殺害してしまった…これはちょっと違うんじゃないの!?ってことで皇帝独裁に対する反皇帝運動が高まっていきました。

 

そして,新しい組織もどんどんと誕生していき,全国にソヴィエト(評議会)が結成されていきます。このソヴィエトには農民のソヴィエト,労働者のソヴィエト,兵士のソヴィエトっていったように,皇帝に頼らない自分たちのことは自分たちでやる自治組織が各地に産まれたと思ってください。このように血の日曜日事件以外にも,皇帝に疑問を抱いた人たちによる反皇帝運動が激しくなってきたので,ここで首相のウィッテが起草した十月宣言が出され,皇帝が「わかった,わかった。」と妥協をし,独裁を緩め,「じゃあ,憲法を作ろうではないか」と憲法制定を約束し,「そして,国会も作ろうではないか」ということで国会(ドゥーマ)開設も約束されました。

 

かつて皇帝は恐ろしいが心強い存在であった

労働者の暮らしは苦しいものであった

なんとか良くしてほしいとお願いにあがった

しかし皇帝は無差別に市民を殺害した

皇帝とは本当は敵なのかもしれないという思いが芽生えてきた

全国で反皇帝運動が高まる,皇帝も妥協をし独裁を緩めた

 

 といった流れですね。しかし,暫く経つと,再び皇帝の専制政治が始まるようになっていきます。

 

反動政治

結局また恐ろしい皇帝が戻ってくることになります。ニコライ2世は,ストルイピンを首相に任命します。議会を作ろうといったものの,そんなものは要らん!議会は解散!革命派も弾圧していきます。さて,ここで一つ「ストルイピンのネクタイ」という有名な言葉を紹介しましょう。ネクタイってのは首にしめるアレですが,ストルイピンのネクタイっていうのは「皇帝独裁は良くないって言ったやつは誰だ!!歯向かうやつは容赦なく首吊りの刑だ!」ということを意味します。とにかく再び恐ろしい政治へと向かっていくのですが,ただ国は強くしていく必要がありますので,ミール(国の農奴)を解体し,頑張れば豊かになれる独立自営農民へとシフトしようとしたのですが,このストルイピンの改革は挫折をしてしまうことになります。

 

日露戦争によって人々の暮らしが苦しくなったので,皇帝に請願の行進をしたものの,その皇帝に無差別に殺されたから,皇帝の独裁に疑問を持つ国民も増えた。皇帝は「わかった,わかった」と妥協をするが,ほとぼりが冷めればまたストルイピンを首相に据えて「皇帝に逆らうものは絞首刑!」といった専制政治へと戻っていったのでした。これで国民の感情は今後一気に皇帝に対して革命を起こそうということで,第一次世界大戦中の第2次ロシア革命へとつながっていくことになります。今回は以上です。