世界史オンライン講義録

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008 列強の二極化(教科書319ページ)

これまで帝国主義とは何ですか?ってお話でしたね。そして,帝国主義のイギリスフランスについてとりあげました。この両者が植民地を取り合ったアフリカの話をしました。そして,ロシア・アメリカ・太平洋とラテンアメリカにスポットをあててここまでみてきました。今回は,第一次世界大戦が勃発した直接の要因についてお話したいと思います。次回は,第一次世界大戦そのものについて見ていきたいと思います。

 

ドイツ

それではまず,第一次世界大戦の原因をつくったアイツ,そう!ドイツに向けましょう。ドイツはヴィルヘルム1世という皇帝が亡くなって,ヴィルヘルム2世という人物が即位しました。前の皇帝ヴィルヘルム1世は,ビスマルクを重く用い,両者は非常に関係が良かったのですが,そのヴィルヘルム1世が亡くなり,ヴィルヘルム2世が新しい皇帝になると,若い皇帝にとってビスマルクっていうのは非常に邪魔な存在だったんですよね。それもそのはず,ビスマルクは世界で最も力のある政治家であり名声を欲しいままにしており,ヴィルヘルム2世よりもすでに人気があったんですよねぇ。「オレにも力があるのに,ドイツを実際に動かしているのは年寄りのビスマルク…おもんねぇ。」ってな感じです。そして,ついにこう言います。「いくら年上だろうと容赦はしない。オレが皇帝になったんだから,やめてくれ!」と。ビスマルクはしばし考えた上で「……わかりました。皇帝がそうおっしゃるのなら,私は引退します。」といって,ビスマルクは首相の座から退くことになるのです。

 

世界政策

では,その後どうなったのかというと,ビスマルクがとった作戦というのはこうでしたね。ビスマルクは若い頃,プロイセンオーストリア戦争やプロイセン=フランス戦争など,さまざまな戦争を仕掛けていったわけですが,晩年は三国同盟あるいは三帝同盟あるいは再保証条約などの条約によって,昔こてんぱんにやっつけたフランスのリベンジを防ぐために,フランスを孤立させるんだっていう作戦,つまりは守りを固める作戦をとっていました。しかし,若くして即位したヴィルヘルム2世にとっては守りを固めるってところが気にいらなかったのですね。フランスのリベンジを避けるためにこのような同盟関係を組むなんていうのは守りすぎだ。ビスマルクとは違うところをここで見せたい!ということで一気に攻めに転じようとします。なので,ヴィルヘルム2世の政策を「世界政策」といいます。そんな世界政策を掲げて,帝国主義を推進していきます。イギリスは,光栄ある孤立,政策として孤立をしていましたので,フランスはいま完全に孤立シている状態で,ドイツはフランスのリベンジは恐れなくても良い,いや違うんだ!おれはこういった同盟関係よりも,強いドイツを世界に示すんだっていうことで,世界政策を進めました。

 

パン=ゲルマン主義

ドイツは,「同盟国はいないか?」っていうことで,ドイツの同盟国伝いにベルリン〜ビザンチウムバグダッドを結ぶ3B政策を展開します。これが,どこにあるかということを下の地図で確認しておきましょう。

 

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現在のドイツ・トルコ・イラクを結ぶ鉄道を敷こうというわけですね。これがイギリスを敵に回すことになります。イギリスはカイロ〜ケープタウンカルカッタという3C政策をとって3つの主要な植民地を結んで行き来させることで利益をあげていました。一方ドイツは,いっきにヨーロッパからアジアまでの鉄道を敷くことで,3箇所の植民地を効率よく往来させることに成功し,イギリスのもおうけを吸い取っちゃおうということで,イギリスVSドイツの構図が出来上がります。

 

再保証条約を破棄

そして,このヴィルヘルム2世なのですが,ロシアとの再保証条約を破棄してしまいます。もともとはフランスを孤立させるためにわざわざドイツの方からロシアにお願いをして締結した三帝同盟だったのに,そのドイツから破棄されるとなるとロシアとしてはもうカンカンですよね。もともとロシアとオーストリアは仲が良くなかったわけですので,三帝同盟は崩壊してしまい,再保証条約もなくなってしまいました。カチンときたロシアは,このあとフランスと同盟を結ぶことになり,これを露仏同盟といいます。

 

こうなると,いま3B政策と3C政策で対立が始まったイギリスとドイツですから,イギリスもロシアに接近をします。これを英露協商といいます。そして,アフリカ縦断政策のイギリスとアフリカ横断政策でぶつかったオランダが,今度はともに手を結ぶことになり英仏協商が結ばれましたので,ヴィルヘルム2世がビスマルクを辞めさせて世界に挑戦状を叩きつけたことにより,ドイツ・イタリア・オーストリア三国同盟VSイギリス・フランス・ロシアの三国協商の対立関係にまたたく間になっていくことになります。まぁ結局ドイツが敗戦するわけですので,ヴィルヘルム2世の判断が正しかったとは言えないですよね。

 

ロッコ事件

そして,ヴィルヘルム2世は帝国主義の流れの中で,「じゃあ新しく植民地を獲得しようじゃないか!アフリカへ乗り込めー!」となります。フランスの植民地であるモロッコに船で乗りつけて,「やいやいオレによこしやがれ!」と強引に奪いにいくのですが,失敗に終わってしまいます。

 

繰り返しになりますが,ビスマルクが築きあげた同盟関係を,若いヴィルヘルム2世が全てを破棄して,世界に挑戦状を叩きつけたっていう大雑把な流れをつかんでもらえればOKです。

 

列強の二極分化

さぁ,この同盟関係の図をもう一度みていきましょう。これで,第一次世界大戦の主な構図が見えてきましたね。ドイツのヴィルヘルム2世がこれまでの守りの同盟を捨てて,攻めに転じたところ,ドイツ・イタリア・オーストリアVSイギリス・フランス・ロシアの対立関係になったということでしたね。ドイツ・イタリア・オーストリア三国同盟ここではドイツ側は赤で表現しますね。そして,イギリス・フランス・ロシアの三国協商ここではイギリス側を青で表現しますね。ちなみにこの3国間の同盟関係は実際にはなく,上に表現したように英仏協商英露協商露仏同盟が足し合わさって三国協商といいます。では対立の中身についてみていきましょう。イギリスはドイツと敵対し,ドイツはロシアを敵対し,ドイツはフランスと敵対するといったように,英・仏・露はそれぞれドイツを嫌いな理由があるということです。

 

その1 イギリスとドイツはなぜ仲が悪いのか?

それは,ドイツがとったアジアに向けて鉄道を伸ばそうする3B政策(ベルリン・ビザンチウムバグダードと,イギリスのとった3C政策(カイロ・ケープタウンカルカッタとの対立です。ドイツが3B政策を完成させてしまうと,イギリスが船でそれぞれ運んでいた物資がドイツの鉄道で一気に巻き上げられる可能性があったからでした。イギリスは「俺たちの利益を狙おうとしているのか,ドイツよ!」といった感じで,イギリスとドイツは仲が悪いのでした。

 

その2 ドイツとロシアはなぜ仲が悪いのか?

ドイツのパン=ゲルマン主義ですね。これは何かというと,ドイツはベルリンとビザンチウムバグダードを結びたい,でもそれぞれの中間にあるエリアは別にドイツの国ではなく,例えばオスマン帝国であったり,なんとかっていう国があるわけで,それらの国々と同盟を結んでいこうと考えをパン=ゲルマン主義といいます。ゲルマン系の民族をドイツの味方とみなし,バグダード鉄道の完成を図るのでした。

では,対するロシアはどうだったかというと,ロシアもあるものが欲しいわけですね。それは凍らない港です。するとロシアも同盟国を作りたいと考えたのでした。それはロシア系の民族すなわちスラヴ系民族を味方とみなし,不凍港の獲得を図るのでした。これをパン=スラヴ主義といいます。

こうしてお互いの主義を唱えて,ドイツが「こっちへおいでよ」といえば,ロシアも「こっちへおいでよ!」といったように,バルカン半島の国々を自分たちの味方に引き入れようとしました。そうするとお互いに「何をぉ!?この野郎!」ってことで対立を始めます。

 

その3 ドイツとフランスはなぜ仲が悪いのか?

じゃあ,最後のドイツとフランスです。ドイツとフランスはもともと,プロイセン=フランス戦争 で対立をしていましたが,敗戦国のドイツがフランス相手にリベンジをしたいということで,仲が悪いのです。

 

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さて,ドイツを軸とするイタリア・オーストリア三国同盟という小さな三角形の外側には,大きな三角形でイギリス・フランス・ロシアといった三国協商で囲まれた状態でした。ドイツは3B政策・3C政策の対立からイギリスと仲が悪い,ドイツはパン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義の対立でロシアと仲が悪い,そしてもともと仲が悪いドイツとフランス,といったように,大きな対立関係の中にそれぞれイギリス・フランス・ロシアがドイツを嫌いな理由があるといったことがおわかりいただけたかなと思います。さぁ,ではすでに爆弾ができ始めているわけですので,誰かが火を投げ込めば一気に爆発するわけですが,この爆発するきっかけとなったのがヨーロッパの火薬庫と言われたバルカン半島情勢です。

 

バルカン情勢

では,もう一度対立関係を確認しましょう。まず,ドイツ・イタリア・オーストリアの小さな三角形のことを三国同盟といいましたね。そして,イギリス・フランスの間で結ばれた英仏協商ですね。これは,ファッショダ事件をきっかけに結ばれました。そして,ロシア・フランスによる露仏同盟ですね。きっかけは何かというと,ドイツが自ら頼み込んだロシアとの同盟を破棄したいわゆる再保証条約破棄でした。そして,イギリス・ロシアの関係は英露協商でしたね。イギリスとロシアは3B政策と3C政策,パン=ゲルマン主義とパン=スラブ主義といったように,VSドイツとの利害関係がともに共通していたので結ばれた同盟関係でした。

 そして,ドイツはなぜイギリスと仲が悪かったのかっていうと,3B政策と3C政策の対立でした。そして,ドイツはなぜロシアと仲が悪かったのかっていうと,パン=デルマン主義とパン=スラヴ主義による対立があったからでした。さらにドイツはなぜフランスと仲が悪かったのかっていうと,もともとプロイセン=フランス戦争で対立していたからでした。さぁ,この利害の絡むところがこのバルカン半島ということになります。オーストリアから伸びるベクトルは,パン=ゲルマン主義の側が進出していく方向です。つまり,オーストリアからバグダード鉄道を敷きたいってことですね。そして,ロシアから伸びるベクトルはパン=スラヴ主義ですね。同盟国を作りたいと考えたロシアは,スラヴ系民族を味方とみなして不凍港の獲得していったのでした。

 

ドイツ側のオーストリアによるボスニアヘルツェゴビナの併合

さぁ,ここでバルカン半島に先に手を付けたのがドイツとの同盟関係にあったオーストリアでした。オーストリアが,ボスニアヘルツェゴビナに手を付けたのでした。これが第一次世界大戦の引き金になっていくのです。ちなみに,今もオーストリアシェーンブルン宮殿にはこのときの皇帝であったフランツ・ヨーゼフ1世の部屋が展示されてあって,その書斎テーブルにバーンってひろげてあるのがボスニアヘルツェゴビナの併合の日の新聞なんです。僕も観光客の一人として見に行ったことがあるですが,その新聞を広げた展示担当の人,センスあるなぁって思いました。だって,第一次世界大戦の引き金となった日の出来事の新聞なわけですよ,さすが歴史のことをよくわかってるなぁって感動しました。併合のその日テーブルに広げた新聞をみながら,「ついにボスニアヘルツェゴビナを併合したんだ!オレが併合したんだ!」って歓喜するオーストリアの皇帝の姿が思わず目に浮かんできました。

 

では,ロシアはこれに対抗するわけですが,バルカン同盟に加わった国がルーマニアセルビア・モンテネグロのような国々です。これらの国々がドイツ・オーストリア側についた国々(オスマン帝国も)と小競り合いが起きます。これをバルカン戦争というのですが,お互いが対立し戦争をした結果,かんたんにいうとブルガリアはドイツ側につき,ギリシャはもともと近寄っているロシアにつき,これら敵対する国々がちょうどこのバルカン半島で交差するように配置されるのです。ドイツ側はバグダード鉄道へのラインを敷きたい,ロシアはなんとか不凍港へのをとりたい。バルカン半島でドイツのラインとロシアのラインがちょうど交差するように同盟国が配置されていくってことです。さぁ,これでバルカン半島のまさにボスニアヘルツェゴビナサライェヴォってところで,オーストリア皇太子がロシアの同盟国であるセルビアの青年に殺されるサライェヴォ事件が起きてしまいます。この事件の結果,皇太子を殺されたオーストリアが,セルビアに宣戦布告し,セルビアはロシアに助けを求めます。そして,ロシアはオーストリアに宣戦布告し,オーストリアは同盟国であるドイツを頼ります。そのドイツは,ロシアに宣戦布告し,ロシアはイギリスとフランスと呼応してドイツを叩きにいくっていう,この一連の勢力図がいっきに弾けるときがやってきます。それが第一次世界大戦です。次回は第一次世界大戦についてお話をしましょう。今日はここまで!