世界史オンライン講義録

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006 列強のアフリカ分割(教科書315ページ)

今回の地図は,アフリカです。このアフリカの大地がほとんどすべての領域で植民地化されてしまいます。この帝国主義の流れをもろにかぶったのがアフリカといってもいいでしょう。このようにアフリカに植民地を求めていく動きのことを「アフリカ分割」とも言われています。では,今回はそのアフリカ分割についてみていくことにしましょう。

 

アフリカの植民地化

アフリカというところは,ヨーロッパの人たちにとってはまだまだ未知の大陸だったわけですね。現代にいきる私たちも,ヨーロッパやアメリカの人たちの生活ってどことなくイメージが湧くと思うのですが,アフリカの人たちの生活っていうのはイマイチぴんと来ないですよね。当時のヨーロッパ人にとって,どういった土地なのか,どんな人たちがいて,どんなモノが採れたのかっていうことがまったく未知の大地でした。そんな未知の大地がだんだん知られるようになってくると,「アフリカってめっちゃオイシイ土地じゃん!」ってイメージへと変わっていくんですよね。これが,列強進出のきっかけとなっていき,まずはリヴィングストン(イギリス人の宣教師)やスタンリーアメリカの新聞記者)といった2人の探検家がアフリカの地に足を踏み入れたのでした。南アフリカのあたりをキリスト教を広めながら探検をしたリヴィンストンなのですが,アフリカのあるところで消息不明となってしまうのです。そうしたら,彼の安否を心配した人たちが「リヴィングストンを知りませんか?アフリカで行方不明になってしまいました。」と新聞に広告を出しました。そうすると,アメリカの新聞社もそのニュースをきいて記者であったスタンリーが上司に「リヴィングストンさんを探してきてくれ!」と指示を受けます。普通に考えたらひどい上司ですよね。どこにいるかわからないが,お前とにかくアフリカにいって人を探してこいって言っているようなもんですから(笑)スタンリーは,手がかりを集めながら探し回るのですが,「そうは言ってもこんな広い土地にいるわけないよなぁ,ないよなぁ,よなぁ・・・あ,いた!」。そう,なんとリヴィングストンとスタンリーがバッタリ遭遇しちゃったのです。これホントの話ですよ。そこで,スタンリーの「リヴィングストンさん,あなたはこのアフリカで何をされていたんですか?」の質問に対し,リヴィングストンは「私はナイル川の水源を探していたのです。」といったやりとりがなされていました。これによってアフリカは今まで未知の大陸だったが,だんだん資源があるし植民地としてはオイシイ土地なんじゃないの?といったイメージに変わっていくのです,アフリカにとっていい話かどうかは別として。

 

ベルリン会議

そして,イギリスやフランスがどんどんアフリカの地を取り合っていくのですが,その過程でコンゴという土地がクローズアップされます。この土地を巡っていろんな国がコンゴを取り合うわけですが,その取り合いに「ちょっと待った!」と名乗りを上げたのがドイツのビスマルクです。ビスマルクは,「コンゴを巡ったトラブルが絶えないのならば,ルールを作ったらいいじゃないか。」と多くのヨーロッパの国を集めて仲介に入ります(ベルリン会議)。その時に,先占権(早いもの勝ち)を認めるっていうことをビスマルクは言いました。例えるならば,アフリカがケーキだとしましょう。そのケーキを巡って争っていたのがヨーロッパの国々です。そこにビスマルクがやってきて「ちょっと待った!ルールを決めようや。ルールは早いもの勝ちってことでどう?」といった提案に対して「おおう,わかった。」とヨーロッパの国々は納得をしました。「よし,じゃあこのケーキは早いものがちですよ。まだだよ,まだ,まだ,まだ・・・。では,いくよ!せーの!!」ってなったら,この後どうなります?ケーキは一瞬でとられてなくなりますよね。つまり,アフリカのほとんどはヨーロッパの国に食われてしまうことになるのです。じゃあ,このアフリカへと進出していった国々についてみてみましょう。

 

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アフリカ分割に関する地図

 

イギリスの進出

 まずはイギリスの進出についてです。イギリスは,上の地図のピンク色のようにアフリカを縦方向にどんどんと支配を広めていきました。このイギリスの進出のことをアフリカ縦断政策といいます。まずエジプトやスーダンに対して仕掛けた一の矢は,スエズ運河の株式を買収しました,これはディズレーリ内閣のときでした。そして,二の矢はエジプトの占領です。もちろんエジプトではイギリスに対して逆らう運動も起きたのですが,イギリスはそれをも利用して,たとえばイギリス出て行け!っていう反乱が起こったら,その反乱を鎮圧するっていう名目で,軍隊を送り込んでエジプトを占領してしまうっていう手法をとりました。イギリスは,エジプトでの反乱(ウラービーの反乱)を鎮圧し,スーダンでの反乱(マフディーの反乱)を鎮圧します。

 では,アフリカ縦断政策ということなので,南から北へとみていくことにしましょう。南アフリカは,さきほどのディズレーリ首相,そして後任で植民地相であったジョゼフ=チェンバレン,そしてケープ植民地相のセシル=ローズの3人の連携プレーによって植民地化が進んでいきました。南アフリカの北側には昔にオランダが置いた2つの小さな国でトランスヴァール共和国オレンジ自由国という国があり,そこにはオランダ人が多く住んでいたのですが,まだそこまでイギリスにはなびいていなかったため,イギリスがこの2つの国を併合しようとしたところ,意外と戦争が泥沼状態になってしまいました。本来であればイギリスはロシアの南下を防ぐために,たくさんの兵隊を置くはずだったのですが,トランスヴァール共和国オレンジ自由国の方に兵をとられてしまったため,結局,イギリスはロシアの南下を止められなくなり,ロシアが再び南へやってくるってときに,そこでイギリスは極東の小さな島国と同盟を結ぶことになります。これが1902年日英同盟なのですね。

 

フランスの進出

 では次に,青色で塗られた国をみてきましょう。

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フランスは,どちらかというとアフリカを横方向に支配しました。これをフランス横断政策といいます。たとえば,アルジェリアチュニジア保護国化したり,ジブチやマダカスカルと連携しよう,つながろうとするわけです。鉄道を敷設すれば,マダカスカルのものがジブチ経由で地中海まで出てくれば,フランスは地中海を挟んだ対岸ですので,連絡しやすくなりますよね。しかし,フランスがアフリカ横断政策,イギリスがアフリカ縦断政策をとっているとなると,ある疑問が沸き起こってきませんか?そう!両者がぶつかってしまいますよね。実際にぶつかりました。この事件が,ファショダ事件といいます。これは本当に衝突の中の衝突でして,どちらも軍隊を持っているわけですから,軍隊と軍隊がにらみ合うわけなんですね。ひょっとしたら戦争にまで発展するのではないかとも思われた…。戦争になったらイギリスVSフランスの大戦争に発展するんじゃないか?と心配されました。しかし,なぜか戦争は起こらなかったのです。さて,なぜでしょう?イギリスとフランスが交わるスーダンは何色になっていますか?そうピンク色のイギリスですよね。つまり,フランスはスーダンをイギリスに譲ったということがわかります。なぜなら,フランスはイギリスと戦っていても仕方がない,フランスが今絶対にまけられない国が1つだけある,それはドイツなんですね。プロイセン=フランス戦争でドイツに負けてしまったので,真の敵はドイツであり,次こそリベンジをしたいんだ!っていう強い思いがあったのですね。今ここでイギリスを戦争をやっていると,本当の敵であるドイツと戦えなくなる,だからここはイギリスに一歩譲ろうということになったのです。「ありがとう!フランス」って感じで,これまでライバル関係にあったイギリスとフランスが急速に接近し,英仏協商を締結し,イギリスのエジプト,フランスのモロッコ領有の相互承認することになります。

 

ドイツの進出

ドイツはカメルーンを領有し,ベルギーは,その時の王様でレオポルド2世の私有地として,コンゴを領有したのでした。しかし,ベルギーのコンゴ領有というのは酷いものでして,例えばコンゴの人たちを酷使して,働きが悪ければナタのようなもので腕をちょんぎったりするということがあったようです。そして,イタリアは,ソマリランドあるいはエリトリアを獲得します。のちにイタリアはリビアも手に入れますので,リビアソマリランドエリトリアを支配することになります。さて,地図中の白色のエチオピアという国なのですが,イタリアはこのエチオピアを喉から手が出るほど欲しかったのですが,このエチオピアは領有に失敗しています。

 

アフリカの独立国

さて,このようにアフリカのとんどの国が支配されてしまいました。で,結果的にアフリカで植民地にならずに住んだ独立国が2箇所あります。まず1箇所目は,エチオピアです,エチオピアはさきほども出てきたように,イタリアから仕掛けられた戦争を跳ね返して独立を保ちました。2つ目の国はリベリアです。リベリアは,実はアメリカが裏で手を引いていたこともあり,他の国は手を出せずにいました。なぜならアメリカのリンカーン南北戦争後に奴隷解放宣言をしました。「奴隷たちよ自由にするがいい,もしアフリカに帰りたければ,リベリアという国を用意するので,そこで暮せばいいだろう」ということで,アメリカの意向によって建国された国でもありますので,リベリアは植民地支配を受けずに済みました。

 

今回はここまでです。