013 インドでの民族運動の形成(教科書326ページ)
これまでのインドはというと、列強がやってきてその中でもイギリスが主導権をにぎったのでした。しかし、イギリスは東インド会社という組織にインドをお任せしていたわけですが,この東インド会社がインド大反乱という問題を起こしてしまったために、イギリスも「もう東インド会社には任せておけない!」ということで、イギリスはインドを直接統治することになりました。これが、インド帝国というものです。
そうすると、イギリスが直接のりこんできたわけだから、今度は「イギリス出て行け!」「イギリス反対!」といった感じでインドの人々はイギリスから独立をしたいっていう雰囲気が高まっていくことになりますよね。そこでイギリスも「困ったなぁ。まぁでも確かにインド人もかなり反感を持っているのだから、ここは一つインドの人の中でもどちらかというとイギリス寄りの人たちを組織して、味方になってもらうための集会を開こう」っていうことで、インド国民会議(ボンベイ大会)を結成したのでした。このように、インドの反感を押さえるために作られた親英的組織ではあるのですが、インド人を何人も集めていくと,やっぱり「イギリス人なのにおれたちを支配しやがって許せない!」っていう声がフツフツと湧き上がっていったのでした。イギリスの思惑とは裏腹に、またたくまに反映的組織へと変貌していったのでした。以上がインド側の動きでした。
これに対して、イギリス側の動きとしては、インド国民会議に対してこれから対抗していくわけですね。それがベンガル分割令という命令です。この命令はなにかというと、もともとインド東側のベンガル地方にはイスラム教徒が多かったんですね。一方でインドの西側にはヒンドゥー教が多かったのですが、「これらを別々の国にしてやれ」っていうものでした。というのも、イスラム教徒とヒンドゥ教徒が一緒になってイギリスに反対をしている、イギリスから独立をさせろといってるわけだから、このままではイギリスとしてもやりづらいので、ヒンドゥー教の国とイスラム教の国を分ければ、イスラム教徒とヒンドゥ教徒が一緒になってイギリスに立ち向かうってことがなくなりますよね。このように仲間割れを起こそう起こそうおしてイギリスは工作を進めたのでした。
じゃあ、インドはこのイギリスによる仲間割れ工作に対して、常にインド側はインド国民会議です。これは完全にイギリスに反対していく団体へとなっていきます。これがカルカッタ大会です。最初はボンベイ大会、次にカルカッタ大会ですね。このカルカッタ大会の指導者は、ティラクという人です。そこで、4つの決議(四綱領)を決めます。これはスローガンのようなものなのですが、
- イギリスのカネ・イギリスのモノを使わないようにしよう(英貨排斥)
- インド人が作った国産品を愛用しよう(スワデーシ)
- イギリスがおさめるインドではなく、インド人がおさめるインド自治を獲得しよう(スワラージ)
- インドの歴史を学びインドを大切にする人々を育てよう(民族教育)
これらを掲げてイギリスに対抗したのでした。
それに対して、じゃあイギリスはどのような動きをみせたのでしょうか。さきほどのようにイギリスはヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を煽ったのでしたね。その中でもイギリスが目をつけたのがイスラム教徒だったのです。イスラム教徒はどちらかというと少数派だったのですが、イギリスは少数派ばかりを支援するっていうことをしたので、えこひいきだっていう声がヒンドゥー教徒の中で起こります。次第にイスラム教徒とヒンドゥ教徒の仲が悪くなって、団結をするっていうことがなくなっていったのでした。
では、今日の流れをまとめておきます。
まずはイギリスが直接インドを支配した。
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インド人は不満に思う
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イギリスは比較的理解のあるインド人を組織してインド国民会議をつくる
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しかし、すぐに反イギリス組織にかわっていった。(ボンベイ大会)
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イギリスはインド仲間割れ作戦としてベンガル分割令をだしてインドを二分しようとした。
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そしてインド国民会議はイギリスから独立しようということで四綱領を打ち出した。
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すると、イギリスはまたもや仲間割れ作戦として、イスラム教徒ばかりをえこひいきすることで、インド人の仲間割れを図った
今回は以上です。