世界史オンライン講義録

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010 変法運動と義和団の乱(教科書322ページ)

前回は,日清戦争で負けてしまった清(中国)のお話をしましたね。世界はこれまで清は強い国だと思っていたのに,格下である日本にあえなく敗れてしまったことで「日本なんかに負けるような清(中国)の領土なんて,みんなで分けてしまえー」ってことで中国がまたたくまに分割されていったのでした。で,今回はその次のお話です。それは,変法運動と義和団についてです。

 

変法運動

変法運動とは,日本の明治維新にならった近代化改革のことです。どういうことかというと,いままでは中体西用といって,中国の体制はそのままで技術だけをヨーロッパのものを用いよ!っていう,実は改革がちょっと中途半端な状態だったんですね。なぜなら,みんなで選挙してリーダーを選んで,そのリーダーが「戦争頑張ろうや!」って言っているわけではなく,皇帝に「戦争に行きなさい!」っていわれて人々がしょうがなく出兵をしている感じです。一方で日本はまだ不十分ではあるものの,議会制民主主義が少しずつ確立され,自分たちのリーダーを選挙で選び,議会で議論をして「国のためにも戦争がんばろうや!」ってなったわけですので,中国のしくみと日本のしくみの違いが,日清戦争の勝敗を分けたといっても過言ではないでしょう。そして,ヨーロッパの国々に次々と分割されてはじめて気づいた中国が,身も心も改めて,皇帝独裁をも改める政治体制の改革(変法運動)を行ったのでした。人間も一緒ですよね,ピンチにならない限りなかなか自分自信を改めようなんて思わないわけですよね。

 

そんな変法運動を推進した中心人物は誰かというと,康有為(こうゆうい)梁啓超(ちょうけいちょう)らです。この人たちが,清(中国)を強い国にしていくためには政治体制をも変えなければならない,皇帝独裁をも改めなければならないと主張したのでした。そうすると,この改革に協力しなければならない人がいるわけですよね。それは誰かというと,皇帝です。皇帝そのものが自分の在り方を改めなければならないわけですよね。「僕の独裁ではなくって,憲法を制定して国のしくみを変えていかなくてはならないよな」ってことで,光緒帝(こうしょてい)の協力もあり変法運動が推進されたのでした。そんな変法運動の改革内容そのものなのですが,戊戌(ぼじゅつ)の変法といって皇帝独裁を改め,立憲君主制(君主をも法律でコントロールするしくみ)の樹立をねらったものでした。さて,皇帝自身はOKしているのですが,そもそもこれまで皇帝独裁の下で偉そうな顔ができていた側近や家族らが,今までのように偉そうな顔ができなくなるので,それは困るってことで抵抗をするわけです。そこで,そんな抵抗を行った人物の一人でもある光緒帝の叔母にあたる西太后(せいたいごう)が,戊戌の変法を握りつぶそうとクーデターをおこし,なんと光緒帝を幽閉(監禁)してしまいます。

 

義和団の乱

さぁ,なんだか清の末期っていうのはいろいろとチグハグだらけですよね。そんな清国内にもいろんなことが起きています。清の中では列強とともに清に入り込んできたキリスト教を押しのけようとする仇教運動(反キリスト教運動)がおこりました。これが発展したものが,義和団の乱です。義和団は,各国の列強と戦って外国を追い出そうという「扶清滅洋(清をたすけて,外国をたおす)」を叫び排外運動をおこします。

ここで不思議な動きがおきます。当の本人である清の国とくに西太后が,「あら?私たち清をたすけて外国を倒そうとする勢力が立ち上がったわ。これを利用すれば私にも勝ち目があるかもしれないわ!義和団と一緒に戦えば,列強諸国を追い出せるかも知れないわ!」と考えたのでした。こうして清朝義和団の乱を利用し,列強に宣戦布告をしてしまいます。これはさすがに無謀でした。ロシア・イギリス・ドイツなどを敵に回してしまうことになるのですから…。結局は,列強8カ国が束になって北京を逆に占領してしまいます。当然,清(中国)側から仕掛けた戦争を仕掛けて敗れたわけですから,このあと厳しいお仕置きが待っています,それが北京議定書です。

 

北京議定書

北京議定書では,巨額の賠償金とともに外国軍隊の北京駐屯が定められます。「オレの国も!」「私の国も!」「僕の国も!」と列強諸国がこぞって北京に兵隊を置き,この兵隊を置くことで圧力にもなるし,脅しにもなるし,いかようにもできるということで,これはもう列強諸国からすれば清(中国)を植民地にしたも同然ですよね。

 

 なかなか清(中国)はチグハグな動きをみせていますよね。そんな清(中国)はこのあと辛亥革命と言われる清が滅亡するきっかけとなった出来事が待っています。今回はここまでです。