世界史オンライン講義録

明 日 へ つ な が る 学 び の 場

011 韓国併合と清末の革命(教科書323ページ)

日本の朝鮮支配完成

日本が朝鮮半島を支配したことによって,日朝関係はあまり良くはありません。ただ,お互い歴史認識はあるけれど,経済的な結びつきはより深まると思いますので,歴史を知っておいて問題に向き合うことは大切なことだと個人的には思っています。ということで,ここではその日朝の歴史についてみていくことにしましょう。

 

まず,朝鮮半島は古くから中国との結びつきが深かったですよね。日本はこの朝鮮に条約とか持ちかけても,朝鮮が「いやいやまずは中国にお伺いを立ててからだよねぇ」って言って,これまで日本との関係を避けてきたわけですね。そこで,日清戦争で中国と朝鮮の関係を断ち切ることに成功し,そこに日本は日韓協約っていう約束事をしかけていくのでした。このことが,徐々に大韓帝国の権利を奪い顧問をつけたりっていう動き なっていきます。とくに第二次日韓協約では,韓国に統監府っていう日本が支配するための機関を設置しました。この統監府のキャプテンである初代統監には伊藤博文が任命され,外交権の剥奪に成功します。

 

このように中国のバックアップを切られたノーガードの韓国に対して日本が進出してきたことに,当然抵抗運動もありました。例えば,反日武装抗争である義兵運動が起こったりもしました。そして,日本の侵略っていう行為を国際的な場でも訴えたりしました。これはハーグ密使事件といって,韓国の君主である高宗が,オランダのハーグで行われた万国平和会議で日本の侵略を訴えたのでした。しかし,訴えたところでヨーロッパを始めとする列強は日本の侵略を黙認します。まぁ,言ってしまえばこのような植民地進出はヨーロッパの国々も当たり前のようにやっていたことなので,ここでももし日本を非難すれば,自分たちも悪いってことを認めることになりますよね。だから,韓国の訴えは無視したのでした。

 

そして悲劇がおこります。統監という立場で韓国を支配していた伊藤博文を,韓国の安重根ハルビンという中国の町で暗殺するといった事件がおこりました。元・初代内閣総理大臣を殺害されたということで日本はついに韓国を併合し(韓国併合),日本は天皇直属の機関である朝鮮総督府を設置して,韓国の軍事権と行政権をすべて統括することで,日本領としたのでした。

 

清末末期の最期のあがき

義和団事件のあと,欧米諸国の進出でさらに中国の植民地化はすすみました。そのあと清では,このままだったら本当にまずいってことで改革が行われました。当時光緒帝が行きていた時代なので,光緒新政といいます。この光緒新政によってなんとか清を立て直そうと試みたわけですね。ただ,戊戌の政変で西太后に幽閉されている状態なので,基本的に光緒帝は閉じ込められた状態です。ただ,生きているのでこの改革を光緒新政とよんだのでした。そして,この光緒新政はなんとしてでも国を強くしなければならないんだってことで,国内改革に力を入れます。例えば,まず軍隊ですね。新軍という軍隊を整備し,西洋にならった軍隊を次々と増設していく一方,あの役人試験であった科挙を廃止します。つまりテストを廃止して,官僚を育てるための専門機関として北京大学を創設します。優秀な人材を育てていったんですね。さらにそれだけではなく,憲法大綱を発布します。これは日本の明治憲法をモデルとした憲法を作ったのでした。さらに,国会を開設を約束するなど,まさに国内改革の動きが全面的に現れたのでした。しかし,みなさん考えてみてください。明治憲法天皇大権といって天皇が頂点に君臨し,議会はお飾り状態な憲法でした。それをモデルに作った場合,皇帝のちからが強いということが憲法で証明されたのでした。国会が開かれても,皇帝のいいなり機関になってしまう。ちょっと待てよ!この光緒新政って国内改革だって言っているけど,最終的には皇帝自分たちのための改革なんじゃないのか?改革が行われても俺たち国民には何も権利がないんじゃないか?今までの皇帝独裁と何も変化がないぞ!って気づき始めるんですね。じゃあ,もうこんな清なんていらない!皇帝を追い出して,満州人を追い出して,自分たちの民衆のためだけの国を作りたい!っていう動きがでてきます。それが革命派です。たとえば,先進国に多く派遣された留学生が「今の中国はだめなんだ!もっと変えていかなければならないんだ!」と立ち上がったのでした。さらに,海外に渡航した中国人の華僑は,「おい,頑張れ!お金ならいくらでも出してやるぞ!」っという形で資金源になってくれました。

 

このように清を倒して,新しい国造りをしようっていう動きが登場します。中でもみなさんに紹介したい革命派のリーダーが孫文です。そして,この孫文はハワイで興中会を結成し,清を倒して中国民衆のための国造りを目指そうとしたのでした。さらに,この孫文の興中会以外にたくさんの革命はグループが登場したので,孫文は「みんな同じだったら一緒に団結しようよ!」ってことで,東京で中国同盟会を結成します。孫文が中心となって革命派がたくさん集まってできた組織です。1905年,ちょうど日露戦争の日本に刺激を受けて,アジアの国でもヨーロッパに十分張り合える,だったら俺たちもヨーロッパに張り合える国を作ろうってことで孫文は中国同盟会を結成しました。また,この中国同盟会の機関紙が『民報』といいます。この中国同盟会の基本的な理念として三民主義(民族の独立・民権の伸長・民生の安定)を導入します。満州人とかを切り離し,欧米諸国から漢民族の独立をめざそう,一般民衆の権利をみとめてあげよう,人々の生活を安定させよう,これを目指して国を作ろうとしたのが孫文の考え方なのでした。このように清朝最期の改革は,自分たち皇帝のための改革でした。民衆のことは何位も考えていない,そこで清朝を倒して民衆のための国造りを目指そうといった革命派が現れたことを覚えておきましょう。