世界史オンライン講義録

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019 ロシア二月革命(教科書336ページ)

今回からはいよいよロシア革命についてみていくことになります。まずは,ロシア二月革命とその後の二重権力についてみていきましょう。

 

ロシア二月革命の勃発

ついにロシアで不満が爆発します。ロシア二月革命の勃発です。当時のロシアで最も問題になっていたのはやっぱり第一次世界大戦です。作った穀物は無理やり政府にとられて前線の兵士に配給されていました。都市部の人たちは常に食料不足に悩まされていました。そんな生活が2年も続けば人々の不満を限界ですよね。「もう勘弁してよぉ,いつまで続くんだよこの戦争…。」

 

そこで,1917年首都のペトログラードで大規模なデモやストライキが発生します(ペトログラード蜂起)。あれ?ロシアの都ってペテルブルグじゃなかったっけ?と思う人もいるかもしれません。実は,今までの都・ペテルブルグというのは名前の由来がドイツ語だったんですね。第一次世界大戦では,ロシアとドイツは敵国同士ですから,ドイツ語由来のペテルブルグっていう名前を使うのを嫌がったのですね。そこで,ロシア読み由来のペトログラードと名前を変えたのです。だから場所は変わってません。このように,ペトログラードでデモやストライキが発生しました。さらに,兵隊もこれに合流してきたのです。この結果,ソビエトという組織が作られるようになりました。労働者と兵士の代表者による評議会です。そのため,人々の不満というのはこのソビエトに集まるようになります。そして,「戦争を早く終わらせろ!」「オレたちの生活を楽にしろ!」労働者や兵士の代表者たちがソビエトで叫ぶわけです。この事態を受けて当時の皇帝はもうこれまでだと判断をします。その皇帝がニコライ二世です。このニコライ二世は皇帝の地位を退き,これにてロマノフ朝が滅亡するというわけです。これをロシア二月革命といいます。それと,一つ気をつけたいのが,教科書によってはロシア三月革命とかかれてあったりします。実は当時のロシアの暦は今の西暦とくらべて13日程度遅れていたと言われています。ロシアの暦では2月なんですが,今の暦では3月だったことからロシア三月革命と呼ばれるのですね。

 

二重権力の時代

さぁ,ロシア二月革命でついに皇帝がいなくなりました。皇帝がいなくなったあとのロシアはどうなっていくのでしょうか。皇帝がいなくなると,ロシアは共和政へと移っていきます。共和政というのは,王や皇帝がいない国のことをいいます。その皇帝がいなくなったので,臨時政府というのが発足し,ロシアの主導権はこの臨時政府が握ることになります。そして,この臨時政府の中心的な存在となったのが立憲民主党でした。さて,ここでロシアの政党を全部で4つ確認しましょう。

立憲民主党:比較的金持ち連中の意見を代弁する組織です。

社会革命党:どちらかというと農民に支持基盤をおく政党です。

メンシェヴィキ

ボリシェビキ

③と④はもともと1つの政党だったのですが,ロシアに革命を起こすときの方針を巡ってケンカ別れした政党でした。この4つの政党は貧しい人達の味方で社会主義の考え方を持っていたのです。そして,この4つの政党の中で臨時政府の主導権を握ったのが立憲民主党でした。戦争を継続する方針は崩さなかったのです。

 

「あと1年ちょっとすればロシアは勝てるから,みんなもうちょっと我慢してよ。そうすればロシアは戦勝国になれるよ!戦勝国になれれば,ドイツから賠償金をとれるよ。賠償金がとれたらみんなの生活も豊かになるよ。だからもうちょい我慢しようよ!」でも,日頃から食料不足に悩まされる人たちはもう我慢の限界です。「いやだいやだ!もういますぐにでも戦争を終わらせてくれーー!」っていう人たちの意見を代弁するのがソヴィエトです。このソヴィエトというのは②社会革命党メンシェヴィキの人たちが中心となってつくったものです。彼らは「今すぐに戦争を終わらせろ!こんなのずっと続けてられるか。」と即時講和を主張します。このように臨時政府と一般民衆の意見を代表するソヴィエトの間でズレが発生しました。このようにお互いにバチバチした関係のことを二重権力といいます。この二重権力というのは,臨時政府とソヴィエトがお互いに力をもっているのに意見が別れている状態をさします。

 

そして,戦争がおわらない。こんな状況を嘆いて登場したのがレーニンです。レーニンボリシェヴィキのリーダーです。当時ボリシェヴィキは臨時政府にもソヴィエトにも入っていませんでした。このボリシェヴィキのリーダーはこう言ったのです。四月テーゼを発表し「臨時政府はいらない。すべての権力はソヴィエトに集めなさい」と…。そして,「すべての権力をソヴィエトに集めて即時講和すべきなんだ。戦争はすぐに終わらせるべきなんだ。終わらせるためには臨時政府なんていらないんだ。」というのがレーニンの主張です。ところが,臨時政府からするとレーニンは厄介や男ですよね。そのため,臨時政府に追われてレーニンはこのあとロシアを離れて亡命生活を送ることになります。だから,彼の考え方は臨時政府には受け入れられなかったということになりますね。

 

このようにレーニンが四月テーゼを発表する中,このあとロシアに大きな衝撃が走ります。なんとケレンスキーという人物が臨時政府の首相に就任したのです。ケレンスキー社会革命党の人です,ということはソヴィエトの指導者ということでもあります。ソヴィエトは社会革命党とメンシェヴィキの人たちの組織でしたから,この社会革命党のケレンスキーが臨時政府の首相にまで就任することになります。おーっと!気づきましたか??リーダーは同じということに。ということはきっとケレンスキーは戦争を終わらせてくれるはずと誰もが期待した中,戦争継続の方針を崩さなかったのです。「いま終わっちゃうとドイツに領土獲られちゃうかもしれない。だから戦争頑張ろう!」ってケレンスキーは言ったのです。人々は「なーんだ,ソヴィエトのリーダーがなってもやぱり戦争は終わらないじゃないか。」と社会革命党に失望します。ということは,このあとに期待が集まるのは,社会革命党でもメンシェヴィキでもなく,そうです!徐々にボリシェヴィキに期待する声が高まっていくわけです。