世界史オンライン講義録

明 日 へ つ な が る 学 び の 場

027 戦勝国イギリス・フランス(教科書341ページ)

さて,ここからは世界大戦後の欧米諸国を勉強していくことになります!皆さん,これよりも一個前の章で勉強した内容を思い出してみてください。第1次世界大戦が終わって新しいルールづくりというのが行われましたね。例えば,ヨーロッパの皆で話し合って世界大戦後のヨーロッパをどうするか?ということでベルサイユ体制という新しいルールが作られましたね。一方,アジア・太平洋ではアメリカが中心となってワシントン体制というルールを作ってきました。そこで,今回はその第一次世界大戦後の各国の国々がどういう歴史を歩んだかというお話にスポットライトを当ててみていきます。 今回は,その戦勝国が敗戦国,世界大戦後に登場した新しい国々など,一体どういう点に気をつけて勉強していかなければならないのか?そういう大きなお話をしていきたいと思います。

 

さて,第一次世界対戦が終わったあとの戦勝国イギリス・フランスの動きについて見ていきましょう。今回のポイントの1点目は「躍進する社会主義勢力」についてです。さて,第一次世界大戦が終わりました。国はお金を使い過ぎて今経済的に余裕がない。 戦争によってどんどん物資が戦場に送られたので国内は物資が不足してます。どんどん値段が上がってく国民の生活圧迫されるんです。 そうすると「自分たちの生活を守ってくれる政治がいいな」って人々は考えたんです。ですので,イギリスでは1920年代に初めて社会主義勢力が徐々に徐々に伸びてきます。それにしても一体何があったのでしょうね!?

 

まず,当時イギリスはウィンザー朝という王朝でした。 1917年からウィンザー朝に変わります。しかし,これは王家が変わったわけではなく,ただ単に呼び方が変わっただけなんです。元々イギリスはステュワート朝が断絶した後,ドイツからハノーヴァー専帝侯という諸侯が招かれて王様になりました。そのためこのハノーヴァー朝というのはドイツ出身の諸侯だったんです。ハノーヴァー朝。これ,思いっきりドイツの呼び方なんですよね。第一次世界大戦中,イギリスはドイツと敵国同士です。なのでドイツの表現を使うのは避けたかったんですね。そのためウィンザー朝と名前を変えたんです。バッキンガム宮殿があるウィンザーの名前を取ってウィンザー朝とします。1917年に名前が変わってから未だに現在イギリスはウィンザー朝です。そして,このウィンザー朝のもと第一次世界大戦を勝利に導いたイギリスの首相,それがロイド=ジョージです。このロイド=ジョージは,挙国一致内閣と言って,戦争を遂行するために政党間の対立を超えた大連合内閣を作ったんです。そして,彼もまた世界大戦で女性が協力してくれたことへのお礼として,第4回目の選挙法改正を実施します。これは,21歳以上の男性30歳以上の女性に選挙権を与えたのです。つまり,イギリス初の女性参政権が与えられたことになります。この結果,選挙に行ける人の数が圧倒的に増えます。すると,「戦後復興を早くやってほしい!」という願いから,社会主義勢力が徐々に人気を伸ばします。そのためイギリスでは,労働党内閣であるマクドナルド内閣が発足します。しかし,このマクドナルド内閣は単独で政権を取ったわけじゃなくて。自由党と連立する形で政権をとったんです。そのため,自由党と喧嘩してしまって,1年も持ってません。なので1924年に発足してその後に崩壊してしまったんです。 ただ,イギリスで初の社会主義政党が内閣を作ったということで重要なトピックの一つになっています。

 

そして,このマクドナルドが内閣を退いた後も,イギリス国内では改革が行われていきます。例えば第5回目の選挙法改正です。あのマクドナルドが退いた後に第5回目の選挙法改正が行われ21歳以上の男女に選挙権が与えられる形になります。さらにこれだけではなく,第一次世界大戦を通してイギリスは今お金に余裕がありません。そのため広大な植民地を維持するのが難しいと考え,自治領,つまりあの白人が支配層となる自治領に対してイギリス本国と同等の地位を与えることを決定します。そのため,イギリス帝国,大英帝国という呼び方からイギリス連邦にかわります。イギリス本国と自治領は仲良しこよしっていうことでイギリス連邦という形に名前が変わったんですね。そして,この本国と同等の地位を法的に定めたものがウェストミンスター憲章といます。このウェストミンスター憲章が制定されることで,イギリス自治領の地位を法的に制定し,イギリスは第1次世界大戦後,国内の改革だけではなく植民地や自治領との関係にもこういった変化が現れたということです。

 

ポイントの2点目ですが,フランス外交が魅せる本音と建前とは一体何なのか?注目しましょう。 第1次世界大戦が終わりました。フランスは甚大な被害を受けましたね。その恨みの矛先にドイツが当たります。「おい,ドイツ!なんてことしてくれるんだ!フランスの街が破壊されたじゃないか!!賠償金をたくさん払え!もっともっと領土をよこすんだ!」ということで,フランスはクレマンソー挙国一致内閣の時に第一次世界大戦終結させます。パリ講和会議でドイツに徹底した復讐を提唱した人ですね。そして,ポアンカレ内閣の時にはドイツが賠償金を支払わないことを理由にドイツの大工業地帯であったルール地方へと出兵してここを占領してしまいます。ところが,この動きは思いもよらぬ形でヨーロッパそしてアメリカから批判を受けます。

「おい,フランス!やりすぎだ!世界大戦が終わった後になのに,なんでまだ軍事侵攻してんだよ。ふざけるんじゃない!」

フランスは怒られたんです。そしたらコロッとフランスは手のひらを返します。それが対ドイツ協調外交へと変わったんです。「やぁ,ドイツ!仲良くやろうよ!僕たちは手を取り合って一緒に行けるはずだよ!」このようにフランスはコロッと手のひらを返したんです。 左派連合政権ができた時には,ロカルノ条約を締結し,あのルール占領した同じポアンカレの時には不戦条約を締結するなど,まさにヨーロッパ諸国の顔色を伺うような外交を展開したんです。本音でいうとフランスは,ドイツが憎くてしょうがない。賠償金をよこせ!よこせ!と思って仕方がないなんですけれども,建前としては国際協調の流れに乗るぞ。そういう外交を取ったのがフランスだったのですね。