世界史オンライン講義録

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015 西アジアの民族運動(教科書330ページ)

今回の舞台は西アジアです。西アジアでおこった民族運動についてみていきましょう。今回のポイントはオスマン帝国における立憲運動と,イランでもおこった立憲運動の2点についてです。

 

オスマン帝国

舞台はオスマン帝国です。オスマン帝国では,立憲運動が再発します。日露戦争の影響がなんとオスマン帝国まで届いたのでした。

 

まず,当時のオスマン帝国の皇帝はアブデュル=ハミト2世でした。そして,アブデュル=ハミト2世のときに,最初,ミドハト=パシャがミドハト憲法というものを作っていたのですが,アブデュル=ハミト2世はロシアと行なった戦争を口実に,この憲法を停止してしまったんですね。だからアブデュル=ハミト2世の時代に起きた立憲運動というのは,一旦止まってしまったってことになりますよね。そして,実際にロシアと行なった戦争によってオスマン帝国はさらに領土を縮めてしまいます。では当時,アブデュル=ハミト2世の時代のオスマン帝国の領土というのはどれくらいだったのでしょうか?

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1878

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1912

 このように,1878年から1912年にかけてのオスマン帝国の領土がゴリゴリ削られているのが一目瞭然ですね。

 

そんなオスマン帝国では,もう一度皇帝の力を抑えようという動きが現れます。それが青年トルコ人という組織でした。ちなみにこの組織の中心的な団体のことを,統一と進歩団といいます。この統一と進歩団を中心にいろいろな勢力が合流してできたのが青年トルコ人とよばれるグループだったのです。そして,1904〜05年に日本とロシアが戦争をしましたね。その結果,極東の小さな国であった日本は欧米列強の一角であったロシアに肩を並べるくらいにまでなったのです。「すごいぞ!日本!やっぱり憲法っていうのも捨てたもんじゃないよな。そういえばオレたちにも昔憲法ってのがあったよな。なんでミドハト憲法停止されてるんだよ!!もう一回憲法を戻すぞ!」ってことで青年トルコ革命というものが発生しました。この青年トルコ革命によってあの停止されていたミドハト憲法がもう一度復活を果たすのです。そして,ミドハト憲法停止させたアブデュル=ハミト2世は責任をとって退位します。さらに,この憲法に基づく新しい政府というものが作られ,オスマン帝国の本格的な改革が成功していくかのように見えたというわけです。ただし,このミドハト憲法復活後も権力は一部の連中に独占されてしまい,さらに帝国主義の進出,列強の圧力によってオスマン帝国はさらに領土を削られていくことになります。結果的に,この立憲運動は遅かったんですね。もうちょっと早く成功していれば,植民地化から脱却できていたかもしれない。憲法制定を実現したんだけども,このあとオスマン帝国は6年後の第一次世界大戦に巻き込まれていきます。

 

イラン

イランでも立憲運動が発生するのですが,イギリス・ロシアの干渉に耐えていく中でおきた運動とはどんなものだったのでしょうか。まず,イランの動きを紹介する前に,イランで起きた民族運動に大きな影響をあたえた思想と人物についてですが,アフガーニーという人物がパン=イスラーム主義というものを提唱し,イスラーム教徒の団結を呼びかけたのです。「すべてのイスラーム教徒はみんなで力を合わせていくべきだ。」そして,「このすべてのイスラーム教徒が力を合わせて,欧米諸国に対抗していこう!」というのがパン=イスラーム主義の考え方です。すべてのイスラーム教徒が団結をし,ヨーロッパやアメリカに対抗しようぜ!といったアフガーニーの思想が大きく影響したのが,1891年のあのタバコ=ボイコット運動です。この運動は,当時のイラン政府がイギリス人業者に対してタバコの生産や販売など独占的な権利を与えました。これに対してイランの民衆・商人・知識人幅広い各層が団結をしてイギリスに対し,そしてイギリスの要求を鵜呑みにするイラン国王に対して抵抗する動きを見せたのです。これはまずイランで起きた運動のひとつなのですが,そのイランにも,日露戦争の影響が届いていったのです。「おい!きいたか!?同じアジアの小国が,あのロシアとぶつかっているらしいぞ。すごいぞ,日本!日本がすごいのってやっぱり,あの明治維新憲法というもの作ったからに違いない。」ということで,日本に習ってイランも動こうとします。それがイラン立憲革命とよばれるものです。このイラン立憲革命では,イギリスやロシアの侵略と,これに従属する弱腰なイラン政府に対して起こしたものでした。仮憲法というものを制定し,国会の開設を決めるなど,まさに日本の明治維新を意識した改革がイランの中でもさかんに行われました。

 

ところがこの後,1907年に英露協商といって,イギリスとロシアが協力関係に入ります。このイギリスとロシアが協力関係に入り,イランの領土を分割します。分割された北部をロシアが,そして南部をイギリスが持っていくんです(ペルシア分割)。ちなみにどういう分割だったかを地図で確認しておきましょう。そして,イギリスとロシアからすると,さっきの革命(イラン立憲革命)も邪魔なわけです。そこで,最終的にイギリスとロシアがイラン立憲革命に干渉して,この革命運動が潰されてしまうということになります。