世界史オンライン講義録

明 日 へ つ な が る 学 び の 場

039 日本の中国侵略

前回は,植民地を持っている国は世界恐慌を切り抜けることに成功していきました。すると,植民地を持っていない国が「じゃあ俺たちにも植民地よこせや!」てなり,軍事力に頼って植民地を求めて外へ外へと出て行こうとします。

 

持たざる国ってどこでしょうか?はい,日本なんですよね。日本は,中国へと侵略することによって植民地を手に入れようとしました。そして実際に日本は1929年からちょっとずつ工業生産力が下がっていくんですが,1932年以降ちょうど中国進出が始まる辺りから急激に回復をしていきます。これこそが日本の動きなんです。

 

日本の軍国主義

第一次世界対戦後,日本は軍国主義の道を進んでいきます。第一次世界対戦が終わっていったい日本に何があったんでしょうか?まずはそちらの背景についても触れていきたいとおもいます。

 

第一次世界大戦が終わりまして,日本はそのまま勢力を拡大していくぞ!と思いきや,第一次世界大戦後にアメリカが中心となってワシントン体制が作られましたよね?これはつまり,日本の中国進出に歯止めがかけられてしまったことを意味します。さらに日本は,世界恐慌よりも前の段階で金融恐慌を迎えています。実は,世界恐慌よりもわりと早い段階で日本は経済危機を迎えていたんです。そこに,世界恐慌による欧米諸国のブロック経済も重なって日本はどんどん経済的にピンチに追い込まれました 。そんな中,「そろそろ日本も植民地を獲得するべきなんじゃないか?」といった意見が次第に出てきます。そのため日本の軍部が発言権を徐々に強めていくようになる。そして,当時日本は朝鮮半島を併合に支配していましたよね?なので,朝鮮半島の北部にある中国東北地方に狙いを定め,いよいよ日本の軍部が動きます。

 

それが柳条湖事件です。中国の遼東半島付近にいる日本の関東軍が,なんと南満州鉄道を自ら爆破します。そして関東軍は,これを中国側の仕業であると因縁をつけます。このようにして日本の軍隊は,中国東北地方に侵略を開始するんですね。この一連の出来事を満州事変と呼びます。そしてさらに,日本軍部のずる賢いところでもあるのですが,これから中国東北地方に進出するけども,それを他の国々に止められたら困るんですよね。だからそこでわざと満州から遠い地域で大きな軍事衝突を起こしたんです。これを上海事変と言います。日本人殺害事件を口実に上海に日本海軍が向かい,ここで中国と衝突します。アメリカをはじめとするヨーロッパの国々からすれば「ええー!!日本が上海で中国と戦っているぞ!?一体何をやっているんだ?」ってことで,慌てて上海に駆けつけます。「何があったんだ?理由を話しなさい?」という形で他の国々がここに注目している間に,日本の軍部は見事満州への進出を成功させるのです。

 

何をもって成功かというと,満州国の建国です。初代執政の地位には溥儀がつきます。覚えてますか?清の最後の皇帝・宣統帝溥儀です。あの清の最後の皇帝を,引っ張り出してきて執政官として満州国のリーダーにします。それでは日本がどの地域を支配したのか地図で確認していきましょう。

 

f:id:ten-made-to-be:20200202130029j:plain

 

1910年の地点で日本は朝鮮を完全に併合してました。そして,日露戦争に勝利して遼東半島南部の租借権をゲットしました。では満州国はどの辺にできたのかというと,ちょうどその遼東半島の北側です。このようにして日本は軍事行動を起こし,満州国を建国することに成功したのです。ところが日本による満州国建国を受けて,欧米諸国が「おい日本!よくも勝手なことをやり上がったな。」と怒り出します。そこであの国際連盟を使ってあの柳条湖事件は本当に中国の仕業なのかどうかの調査に入ります。それがリットン調査団の報告です。そしてこのリットン調査団は,「満州事変は日本の軍事侵略行為である。そして,南満州鉄道が爆破されたのも日本の自作自演である。よって満州国建国は認めない」そういう報告をしたんです。これを受けて日本は「わかりました。それならば国際連盟を辞めさせてもらいます。」といって国際連盟を脱退します。このようにして日本は国際的な孤立を徐々に深め,国際連盟を脱退して満州国の建国を無理やり既成事実にしようとしたんです。さあ日本の軍部が力をつけてきましたね。しかし,これがやがて日本国内の政治にも大きな影響を与えます。

 

まずは五・一五事件です。この事件では犬養毅首相が軍部によって暗殺されてしまうんですね。

f:id:ten-made-to-be:20200202130205j:plain

まさに日本の政党政治が終わる瞬間です。さらには,二・二六事件といって陸軍の青年将校らが,当時の重臣や閣僚などを次々と暗殺。激動の日本を支えてきた優秀な閣僚たちが次々とここで命を失っていったんです。これによって完全に日本の政治は軍部によって掌握されてしまいます。そして,その軍部が植民地を求めて中国大陸へと進出を強めていく,日本の軍国主義化がまさに進んでいった時代。

 

 

国民党VS共産党

さあ当時日本が中国に進出を始めていた頃,当時の中国では一体どういう状況だったのか見ていきましょう。当時の中国は,国内は全然一致団結していませんでした。国民党の蒋介石が,共産党を潰すのに必死だったのです。

f:id:ten-made-to-be:20200123225616j:plain

蒋介石

国民党の蒋介石は日本なんか放っておいて,とにかく共産党潰すのに必死だったんですね。そのため,国民党の攻撃を受けて共産党は大移動を行います。共産党を率いた毛沢東は,本拠地を瑞金から延安へ移動します。距離にしておよそ1万2500キロですから,ものすごい距離を移動したことになりますよね。このように国民党の攻撃を受けた共産党は逃げ出すということを行ったんです。

f:id:ten-made-to-be:20200202131144j:plain

毛沢東

しかしながら,この逃げている最中に,「蒋介石!敵は僕たちじゃない。ほかにいるはずだ。」と蒋介石に呼びかけます。そこで共産党が発表したのが,八・一宣言です。国民党に対して「今すぐ内戦を止めなさい !日本と戦うためにみんなで協力すべきなんだ!」と抗日民族統一戦線の結成を訴えかけたんです。もちろん中国共産党毛沢東が焦っているのも地図を見ればわかるでしょう。

 

f:id:ten-made-to-be:20200202131014j:plain

 

当時朝鮮はすでに日本に併合されておりその北側に満州国が建てられている。そして,満州国が建てられているにも関わらず,蒋介石共産党潰すのに必死なんです,つまり完全に日本の満州国は放って置いているわけです。そこで共産党は,瑞金からぐるっと回って逃げ回って延安に移動するのですが,この移動の間に「敵は僕らじゃなくて日本だよ!」という言い方をしたんです。しかし,蒋介石は耳を貸しません。「共産党の言う事なんて一切信用できない!」として,蒋介石は手を組むことはなかったんです。そんな中,蒋介石にある出来事が訪れます。

 

西安事件です。この事件では,蒋介石の部下になっていた張学良が,なんと武力で蒋介石を監禁してしまうのです。「お願いします!中国共産党と手を組んでください!中国共産党と手を組んで日本を追い出してください!僕のお父さんは南満州鉄道に乗っている時に,日本に爆殺されたんです。」このように張学良が必死に頭を下げたんですね。 そして,蒋介石は度重なる説得の末ついに抗日への姿勢を示したのです。蒋介石は「分かったよ…。じゃあ,もし日本と戦争状態になったら俺は共産党と手を組むことを約束する。」といいながら,抗日への姿勢を渋々認めます。

 

そして,いよいよ日本と中国がぶつかりました。盧溝橋事件と言います。北京郊外の盧溝橋で日本と中国の軍が対峙,1937年7月7日に軍事衝突が発生しました。日本と中国がぶつかったことで日中戦争がスタートし,日本と中国がぶつかったことで,国民党も「共産党と手を組むぞ」ってことで第2次国共合作がここで生まれたんです。しかしながら日本の軍隊は強かった。次々と中国各地へと入ってきます。

 

日本は南京を占領します。ちなみにこの南京を占領したことで起きた事件が南京事件と言います。今でも諸説あるために教科書によっては書かれている内容にブレがあるのですが,この南京事件では多くの南京の市民を日本軍が虐殺したと言われています。ただしこちらの事件に関しては,今でも研究が進んでいるところですので,また何年が経つと学説が変わったりする恐れはあります。ただ日本はこの時南京を占領し,その後中国各地へと侵略を行う,日本は完全に優勢である一方で中国は劣勢に追い込まれます。そして,蒋介石は逃げに逃げて山奥にある重慶というところにまで逃げ延びます。

 

国民政府の蒋介石は,次に重慶へと拠点を変えましたので,これを重慶政府といいました。もしここが陥落したら完全に蒋介石は負けてしまうことになります。抗日最後の拠点になった場所です。一方の日本は,蒋介石を潰すために軍隊送る一方で,南京に日本の操り政府・南京国民政府をつくります。 これは,日本の傀儡政権ですね。傀儡というのは操り人形的です。汪兆銘という蒋介石とかつて対立した人間を南京国民政府の指導者に立てて日本の操り政府を作って,日本は「こっちが本当の中国の政府だ!」といったわけです。

 

このように日本と中国の軍事衝突をきっかけに,日本は中国への侵略を積極的に行っていったんです。